@なかさだの「終わり良ければすべて良し」 All's Well That Ends Well by @nakasada

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昭和の野球

 

 

 

 

 

どうも、なかさだです。

今日のエントリーは野球についてです。

わたしが野球をやっていたのは、昭和なので思い出しつつ書きたいと思います。

 平成生まれの若い方たちのお父さんたちの子供のころの話になるかな。

 

だいたい昭和40年台後半~50年代ごろの話です。

 

 

いつボールに触れるようになったか、覚えていないんですが小学校に入ってからじゃないかな。

多分、小学校の低学年くらいからだったと思います。

道具は駄菓子屋で売っているようなゴムボールにプラスチックのバット(大阪人はなぜかプラッチックって言うね)で素手でやってたかな。

いわゆる三角ベースからだったと思う。

9人も集まることは滅多に無くて、5~6人で近所の公園でやってた。

そういや当時は、透明ランナーとかいたな。(想像に任せるわ)

フットベースをやるか、野球をやるかはその日の気分というか、ボールで決まることが多かった。

わたしたちが遊んでいた公園は、左側は道路があって民家が立ち並んでいて、右側は緑色の鉄のフェンスだった。

フェンスの下は崖になっていて、振り遅れて右にファウルを打つとボールが無くなってしまうことが多かった。

あるいは当時のガキどもは、みんな王選手に憧れていたので左打席に入るやつも多かった。

ガキはみんなモノマネの名人だからね。

仮面ライダーごっことかよくやったな。

 

 それでボールは貴重品だった。100円程度だったけど。

ボールを無くしちゃって、親が買ってくれないと野球はできなかったかな。

みんな少ないながらも小遣い銭はもらっていたが、3日もすれば無くなっていたしね。

 でも、そのころは野球だけじゃなくて、どんなことでも遊びの材料になったから退屈することはなかった。

 

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それで小学校も高学年になってくると、みんなの野球熱はどんどん高まっていった。

多分そのころやっていた漫画とアニメの影響だろう。

タイガーマスク」の梶原一騎原作、伝説の「巨人の星」から始まって、「侍ジャイアンツ」、のちに「ドカベン」など他にもあったが、みんなテレビにかじりついて見ていた。

なので田舎では、巨人(ジャイアンツ)とその他の球団という扱いだった。

パリーグは知らなかった。日本シリーズでしか見たことが無かった。

フジテレビ系列で「プロ野球ニュース」という番組はあったが、時間が遅かったので、わたしは見ていなかったのだ。

フランチャイズがある地域は違うと思うが。

 

ボールは軟球に変わり、バットは金属バット、グローブを買ってもらえるヤツも増えたし、道具には困らなかった。

それで放課後は、雨が降らない限り学校のグラウンドで、もっぱら野球をやっていた。

このころになるとメンバーには困らなくなっていて、放課後に隣のクラスの奴らと試合するぞとかいう流れだと、ヘタなヤツや気が弱いヤツは代打とか代走に回されていた。

学校だと校庭のほとんどで男は野球をやっているので危なかった。

あとローカルルールがあって5球以上ファウルを打つとアウトになったりした。

 

毎日のように日が暮れるまで遊んでいたので、夏場は、よく家に入れてもらえないことが多かった。(うちの門限はお袋がメシの支度を始める6時くらいだったので)

 長野は雪が降るので冬は野球盤で遊んでいたっけ。

野球盤K

野球盤K

 

 

あと王選手フィーバーも大きかったと思う。

巨人の王選手がハンク・アーロンの持つ755号を更新しそうだったから、日本中が沸いていた。(1977年だったみたい)

当時の田舎の小学生は、女の子はピンクレディー、くそガキどもは王選手にメロメロだった。(死語かコレ)

うちは姉がいたので当然レコードは全部あった。

わたしはミーちゃんの大ファンだったが。。。

 多分田舎だったから、どちらのサインでも持っていたら、みんなに死ぬほど、うらやましがられていただろう。

 

 よく覚えていないけど、当時の子供のテレビの楽しみはプロ野球というか巨人戦、ドリフターズの全員集合、 あとは戦隊もの「ゴレンジャー」とか「がんばれロボコン」「あばれはっちゃく」とかアニメとかだった。

 

わたしは「宇宙戦艦ヤマト」に狂っていたと思う。

ツレは永井豪の「デビルマン」ではなく「キューティーハニー」にやられていたっけ。

ゲッターロボ」が見たくて、書道塾に行きたくないと言ったら、お袋にひどく怒られたりしていた。

ちょっと時代がズレていて思い出せないし、混沌としているが、まあ、その辺の時代だ。(同世代とか40歳代だったら分かると思う)

 

当時住んでいた地区は野球が強くて、リトルリーグやシニアまであったので、レベルはやたら高かった。高校にスカウトされる子供がごろごろしてた。

 

 わたしはチビで痩せていて、ボールが前に飛ばなかったこともあって、守備は得意だったけど、(体は動かないけど今でも全ポジション守れると思う)小学校で野球とはサヨナラした。

 

中学校ではサッカー部に入り部活を3年間やった。

こういう性格なので、今度はサッカーをやりに中学校へ行く気分だった。

神様はマラドーナに変わっていた。

 

だから、わたしの野球選手としてのキャリアは小学校で終わりだった。

 

 多分、清原もこういう少年時代を過ごしたんだと思う。

PCはおろかファミリーコンピューターすら無い時代の話だ。

当時の田舎のガキどものプロ野球選手への憧れは、凄かった。

崇拝してたし、王選手は神様だと思ってた。

 初めて後楽園球場に行ったときは興奮して眠れなかったくらいだ。

 

今でいうならサッカー選手にとってのメッシ様みたいな存在だ。

 

 彼はシニアリーグでも有名な選手だったので、尚更だ。

PL学園に入ってからも凄かった。

当時の王監督にも、わたしの本塁打記録を破る可能性があるとしたら、君しかいないとまで言われていたのに。

 

その彼が夢を壊してしまって、本当に残念でならない。

 こういう野球人生の終わり方も昭和っぽいといえば昭和っぽいんだが。

 子供のまま野球だけをやってきたんだろうね。

彼は球場でしか自分を表現できなかったのかもしれないが、これからは更生してほしいと心から願っています。

 

今日のエントリーは、ニュースで、これを見て書こうかなと思ったけど、まあ、いいかな(笑)

 全盛期の掛布と江川の勝負もアツかったよなあ。。(遠い目)

ちなみに、うーやんはヘディングで全国区になった選手です。

news.yahoo.co.jp

 

それでは長い思い出話に付き合ってくれて、今日もありがとうございました。

では!!

 

 

 

 

 

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