@なかさだの「終わり良ければすべて良し」 All's Well That Ends Well by @nakasada

日常の生活や気になるニュース、趣味のゴルフ、カメラの日記、つぶやきです。サブログhttp://nakasadaxnobel.hatenablog.com/

NHK大河ドラマ 『真田丸』 第25回 「別離(べつり)」感想-今週の真田丸 (6/26放送 ネタバレあり)

 

どうも、なかさだです。

 

NHK大河ドラマ真田丸』第25回

「別離(べつり)」感想

-今週の真田丸 

 

ご当地大河ドラマだから見るだけでは、つまらんので記事にしています。

*毎週日曜日6時のBSの放映後に更新するので閲覧注意です。

 

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実況はこちら

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先週は伊達政宗ずんだ餅祭りだったかもしれませんが、最後の汁かけ飯は見逃していて気がつかんかったです。(録画で見た)

宮城県民は怒っていいんだよ。

でも、10年後の関ヶ原の戦いまで出てこないかもしれないですね。

 

というよりも、これまで高嶋政伸が、ご飯のシーンで必ず汁をかけていたので当たり前になってたような気がしました。もう見れないのは残念かな。

長かった小田原城をめぐる戦も終わってしまったので、さらに人間ドラマっぽくなりそうですけど、どうなんだろうね?

秀吉ファミリーの崩壊が今週から始まる予感ですが、かなり陰惨かもしれないですから三谷幸喜が、どう描ききるかに注目してみましょう。

 

 

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真田丸 後編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)

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 これ買って読んで予習はしませんからねw

 

 

地元情報です。

ueda-sanadamaru.com

わたし上田城跡公園内の大河歴史ドラマ館に初めて行ったんですけど、案外空いてまして満喫しました。

上田市民会館だったのになあ。VR技術は凄かったです。

写真撮影は2ヶ所だけOKです。NHKに行ったみたいでしたよ。

お土産も売ってます。

 

NHKの公式ホームページです。

www.nhk.or.jp

 

 

真田丸 - 2NN 2ちゃんねるニュース速報+ナビ - 2ch News Navigator

今まで見ていなかった人もここでチェックすれば、丸わかりです。

 

 

 

まずは先週のおさらいから


5分で分かる真田丸~第24回「滅亡」~

 

 

第24回「滅亡(めつぼう)」のあらすじ

 大坂編第11回

『真田丸』戦国の世が終わる? 降伏しない氏政に徳川・上杉・昌幸がついに動く/2016年6月18日 - エンタメ - ニュース - クランクイン!

第24話では、信繁(堺雅人)は沼田裁定で競り合った本多正信近藤正臣)、板部岡江雪斎(山西惇)から頼まれ、北条の説得に向かう。降伏するように説くが、氏政は容易には受け入れない。

 やがて徳川家康内野聖陽)、上杉景勝遠藤憲一)、そして昌幸(草刈正雄)が氏政の元を密かに訪れる。東国でしのぎを削った強敵同士として、秀吉に許しを請い生き延びることを勧める。実力を認め合う者たちの言葉に氏政の下す決断は…。

 NHK大河ドラマ真田丸』第24話はNHK BSプレミアムにて6月19日(日)18時、総合テレビにて20時放送。

 

上記記事の引用

 

 

 

www.nhk.or.jp

 千利休切腹、鶴松が死亡、あとは誰がお亡くなりになるのだろう?

新キャスト顔見せ回かな。やっと半分まで来たか、長いな大河ドラマ

 

 

*ネタバレというか今回のあらすじです

『真田丸』天下統一の秀吉を襲う禍 “呪い”の元凶・利休を追いつめた信繁は…/2016年6月25日 - エンタメ - ニュース - クランクイン!

北条の滅亡により、秀吉の天下統一は完成。だが、その矢先に秀吉の愛児・鶴松が重い病を患う。信繁や三成(山本耕史)はというと、利休のことが頭から離れない。利休は武器商人として北条ともつながり暗躍していたが、それを信繁たちが突き止めると秀吉によって切腹に追い込まれる。

 利休の呪いを恐れる人々。一方で、家康は秀吉が嫡男を失った後の天下の行方を思い描くのだった…。NHK大河ドラマ真田丸』第25話はNHK BSプレミアムにて6月26日(日)18時、総合テレビにて20時放送。

 

上記記事の引用

 

参考に

千利休 - Wikipedia

千利休(せん の りきゅう、せん りきゅう、大永2年(1522年) - 天正19年2月28日1591年4月21日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての商人茶人

わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられる。また、今井宗久津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠と称せられ、「利休七哲」に代表される数多くの弟子を抱えた。子孫は茶道三千家として続いている。天下人・豊臣秀吉の側近という一面もあり、秀吉が旧主・織田信長から継承した「御茶湯御政道」のなかで多くの大名にも影響力をもった。しかしやがて秀吉との関係に齟齬を生じ、最後は切腹へと追い込まれた。切腹を命ぜらるに至った真相については諸説あって定まっていない。

 

生涯[編集]

和泉国商家(屋号「魚屋(ととや)」)の生まれ。家業納屋衆倉庫業)。父は田中与兵衛(田中與兵衞)、母の法名は月岑(げっしん)妙珎、妹は宗円(茶道久田流へ続く)。若年より茶の湯に親しみ、17歳で北向道陳、ついで武野紹鴎に師事し、師とともに茶の湯の改革に取り組んだ。堺の南宗寺に参禅し、その本山である京都郊外紫野の大徳寺とも親しく交わった。織田信長が堺を直轄地としたときに茶頭として雇われた。

本能寺の変の後は豊臣秀吉に仕えた。天正13年(1585年)10月の秀吉の正親町天皇への禁中献茶に奉仕し、このとき宮中参内するため居士号「利休」を勅賜される。天正15年(1587年)の北野大茶湯を主管し、一時は秀吉の重い信任を受けた。また黄金の茶室の設計などを行う一方、草庵茶室の創出・楽茶碗の製作・竹の花入の使用をはじめるなど、わび茶の完成へと向かっていく。秀吉の聚楽城内に屋敷を構え聚楽第の築庭にも関わり、も3千石を賜わるなど、茶人として名声と権威を誇った。秀吉の政事にも大きく関わっており、大友宗麟大坂城を訪れた際に豊臣秀長から「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」と耳打ちされた。

天正19年(1591年)、利休は突然秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられる。前田利家や、利休七哲のうち古田織部細川忠興大名である弟子たちが奔走したが助命は適わず、京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられる。享年70[1]切腹に際しては、弟子の大名たちが利休奪還を図る恐れがあることから、秀吉の命令を受けた上杉景勝の軍勢が屋敷を取り囲んだと伝えられる。死後、利休の首は一条戻橋梟首された。首は賜死の一因ともされる大徳寺三門上の木像に踏ませる形でさらされたという。

利休が死の前日に作ったとされる遺偈(ゆいげ)が残っている[2]

人生七十 力囲希咄 (じんせいしちじゅう りきいきとつ)
吾這寶剣 祖佛共殺 (わがこのほうけん そぶつともにころす)
提ル我得具足の一ッ太刀 (ひっさぐルわがえぐそくのひとツたち)
今此時ぞ天に抛 (いまこのときぞてんになげうつ)

利休忌は現在、3月27日および3月28日大徳寺で行われている。

死の原因[編集]

利休が秀吉の怒りを買った原因を「大徳寺三門(金毛閣)改修に当たって増上慢があったため、自身の雪駄履きの木像を楼門の二階に設置し、その下を秀吉に通らせた」[3][4]とする説が知られているが、その他にも様々な説があり、詳しくは分かっていない。また、秀吉は蟄居を命じただけで死罪までは企図していなかったが、利休が一切の弁明をしなかったために切腹を命じたとする説もある。

  • 安価の茶器類を高額で売り私腹を肥やした(売僧(まいす)の行い)疑いを持たれたという説[5]
  • 天皇陵の石を勝手に持ち出し手水鉢庭石などに使ったという説[6]
  • 秀吉と茶道に対する考え方で対立したという説[7]
  • 秀吉は元々わび茶が嫌いで、ある日彼の命令で黄金の茶室で「大名茶」とよばれる茶を点てた頃から利休は密かに不満を募らせていた。さらにこの後、信楽焼茶碗を作っている事を聞いて憤慨した秀吉からその茶碗を処分するよう命じられたが、利休は全く聞く耳を持たなかったために秀吉の逆鱗に触れたという説[8]
  • 秀吉が利休の娘を妾にと望んだが、「娘のおかげで出世していると思われたくない」と拒否し、秀吉にその事を恨まれたという説[9][10]
  • 豊臣秀長死後の豊臣政権内の不安定さから来る政治闘争に巻き込まれたという説[11]
  • 秀吉の朝鮮出兵を批判したという説[12]
  • 権力者である秀吉と芸術家である利休の自負心の対決の結果という説[13]
  • 交易を独占しようとした秀吉に対し、堺の権益を守ろうとしたために疎まれたという説[14]
  • 利休が修行していた南宗寺徳川家康と繋がりがあり、家康の間者として茶湯の中にを入れて、茶室で秀吉を暗殺しようとしたという説

 

ウィキペディアより引用

 

豊臣秀吉 - Wikipedia

天下統一[編集]

後北条氏を下し天下を統一することで秀吉は戦国の世を終わらせた。しかし毛利氏長宗我部氏・島津氏といった有力大名を滅ぼすことはせず、従属・臣従させるにとどまった。徳川氏は石高250万石を有し、秀吉自身の蔵入地222万石より多い石高を有するほどであった[注釈 24]

天正19年(1591年)、弟の豊臣秀長、後継者に指名していた鶴松が、相次いで病死した。そのため、甥・秀次を家督相続の養子として関白職を譲り、太閤(前関白の尊称)と呼ばれるようになる。ただし、秀吉は全権を譲らず、実権を握り二元政を敷いた。この年、重用してきた茶人・千利休に自害を命じている。利休の弟子である古田重然細川忠興らの助命嘆願は受け入れられず、利休は切腹した。その首は一条戻橋に晒された。この事件の発端には諸説がある。

同年には東北で南部氏一族の九戸政実が、後継者争いのもつれから反乱を起こした(九戸政実の乱)。南部信直の救援依頼に、秀吉は豊臣秀次を総大将として蒲生氏郷浅野長政石田三成ら九戸討伐軍を派遣した。東北諸大名もこれに加わり6万の軍となった。戦いの後に降伏した九戸政実実親は、豊臣秀次に一族とともに斬首され、九戸氏は滅亡して乱は終結した。

この年、京都の四周を取り囲む御土居を構築した。これは京都の防衛のためだったとも、或いは戦乱のために定かでなくなっていた洛中洛外の境を明らかにするためだったともされる。

文禄の役[編集]

天正19年(1591年)8月、秀吉は来春に「唐入り」を決行することを全国に布告。まず肥前国に出兵拠点となる名護屋城を築き始める。文禄元年(1592年)3月、の征服と朝鮮の服属を目指して宇喜多秀家を元帥とする16万の軍勢を朝鮮に出兵した。初期は日本軍が朝鮮軍を撃破し、漢城平壌などを占領するなど圧倒したが、各地の義兵による抵抗や明の援軍が到着したことによって戦況は膠着状態となり、文禄2年(1593年)、明との間に講和交渉が開始された。

 

ウィキペディアより引用

 

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第25回「別離(べつり)」

 

午後6時のNHKBSプレミアム放送を見ながらサラッと書いていますので、セリフもシーンも漏れまくりです。

(後日、録画を見て加筆校正して更新しています)

 

豊臣秀吉による 天下統一の完成である

 

淀城 天正19年 鶴松3歳

秀吉の期待を一身に背負った鶴松であったが....

ドラマ内では病気は利休の祟りではないかという噂が流れている

 

鶴松の病気見舞いの者たちが淀城に訪れていた

 

極めてよくない、今夜がヤマだろう

 

平野課長ここでそれ言うかw

利休殿があのような最後を遂げたので

その怨念が.....

 

利休の切腹シーン(回想)

 

利休の犯罪を暴く三成、吉継、信繁

これが何かもちろんご存知であろうな?

刻印の入った鉛を証拠として突きつけられる利休

 

あんさんの話を殿下がどれだけお信じなるはるかでんなあ

 

 

 

石田三成たちに担ぎだされた弟の秀長は秀吉に直訴

利休は敵味方構わず鉄砲や玉薬を売っていたのです

 

どうやらこれが最後のご奉公になりそうだ

 

利休は力を持ちすぎました

 

ひとまず預からせてくれ

 

兄上はあと何年生きるつもりですか?

 

何だ?いきなり?

 

わたしも兄上も亡くなったあと鶴松様は誰が守るのですか?

 

誰か一人に力が集まるのは豊臣家にとって良くないと秀長は進言した

鶴松様のため!

豊臣家のため!

 

利休を信じきっていた秀吉は考えを改める

天正19年1月22日 しかし、秀長が52歳でこの世を去る

 

三成と吉継は鶴松死亡後の段取りを始めた

 

大徳寺のシーン(回想)

大徳寺山門 楼上

自分の像を作らせた利休

 

正直持て余しておるのでございます

僧侶は利休に世話になってるわりに冷たかったw

 

吉継と三成は利休の追い落としを図る

追い落とせるなら多少手荒なことをしても構わぬな?

 

わたしとてきれい事のみでは生きて行けぬことは知っておる

 

いや、ほんとうに手を汚すということはどういうことか

まだ分かっておらぬ(吉継怖いなー)

 

殿下が山門をくぐる時知らぬ間に利休の足元を通っていたことになります

 

利休が置かせたのか?

 

決して許してはなりませぬ

 

よきようにせよ

秀吉は利休の蟄居を命じる

 

 

千利休その方の行い許しがたく、よって本日をもって京から追放

 

そりゃあ、御無体と違いますか?

利休は鶴松の見舞いに献上金を差し出す

 

お主には蟄居半月の後、切腹を申しつける

 

ということでしたら..

世の中を動かすことに使うてこその金や

無駄にしたら罰が当たりますさかいに

 

利休のことは忘れろ

祟りなどあるはずがない、

祟られるとしたら真っ先に祟られるのはこのわしだ

大谷吉継は梅毒で鼻が落ちたという伝説がある)

 

回想 蟄居中の利休

信繁との会話

 表に3000人の兵がおるそうやな

 

わては商人の街に生まれ

金が人の心をそして国を動かすことを学びました

 

そして知ったんや

戦は儲かりまっせ

しかし、人の心命を金で操るのは業の深いことや

それゆえ、わては茶をたてる

茶の湯を極めたのも、わての業が深~いゆえ

 

どうぞ利休の業がたてた茶味おうてくだされ

 

利休様一つだけ教えて下さい

何ゆえ、あのような像を作らせたのですか?

 

あれで足すくわれましたなあ

一言で言えば宿命(さだめ)や

ハハハハハ...

 

信繁は利休の説明に納得がいかない

 

昌幸が母ちゃんが効き目あらたかな薬草を持って見舞いにやってきた

ネタが始まったw

 

煎じ方が難しいのですが一緒に参りましょうか?

 

で、実のところはどうなのじゃ?ちょっとぐらい、いいではないか?

誰にも言わんから(しつこいな親父殿w)

 

信繁は鶴松の病状を伏せていたが

出浦氏に言われて佐助が調べに行った(どういう設定なんだこの師弟)

 

 

信幸は沼田を経営するようになっていた

身内に振り回される信幸

ひでえな大叔父上wしかし、コントかよ

 

稲も続くのか....

 

不思議なものだな

おぬしのの仏頂面も近頃は愛くるしく思えてきた

無性におぬしの笑った顔が見とうなった

どうか笑ってみてはもらえぬか?

こしょこしょこしょこしょ(何だこれはw)

 

優しいのはおこうだけか、辛いな信幸w

 

上田城では

今回は回想シーンが多い

 

まつと再会した小山田さん

茂誠と会ったら記憶が全部蘇ったそうだ

 

小山田さんは真田家家臣に復帰、岩櫃に移ることになった

ばばさまは年だな

 

俺、夜になると目がかすんでくるんだ、ここ、お前に任せてもいいか?

平野課長サボり常習犯だよなw

 

秀次がきりと鶴松の見舞いに来た

北政所でんでん太鼓を渡すきり

 

例の落書の件を考えますと心配ではありませぬか?

鶴松様に万が一のことがあったら

立ち会った医者たちがどんな目に遭うか?

 

お捨が病がちになったのはあんたが罪のない人たちを苦しめたからと

きつく言っといたで

 

通りかかった大蔵卿局

何かあったらなどと縁起でもない!

あの方の死にいささかご自分も関わっていられたから

姫さまはここのところ利休殿を父親のように慕っておりました

鶴松の病気は利休の祟りではないか(新説)

 

淀殿も利休に取り入っていた

大徳寺の利休の像は淀殿のせいか

あんさんが欲しいというから、わざわざ作ってもろたんです

 

わたしが欲しかったのはもっと小さなものです

お茶を点てるときに側に置いておこうと思って♥

 

実は注文の時に寸法を間違いましてなあ

けど、捨てるのも不憫やし、どうしたもんか

 

そう言えば最近綺麗にした山門に利休様は随分寄進されましたよね?

あのお寺に預かってもらえばいいのでは?

お世話したのだからきっと大事にしてくれましょう

 

これで繋がりました(ひでえ展開だな)

 

祟りでなければよいのですが

 

私、お茶々様が怖いみんなを不幸にしている

悪気はないんだ、あの方には

 

だから余計怖いの

(きりがまともなことを言うというのは視聴者からの苦情のせいか?)

 

 

 

片桐且元は昌幸の差し入れの薬草を煎じた(ネタ)

ん?流してしまいました

薬草の残りに賭ける且元

 

福島正則加藤清正が見舞いに来た

願掛けで水浴びしてるところに三成も加わる

石田治部ナイスボディーだなw

 

徳川家康も見舞いに来た

夜食を差し入れるとは気がきいてる

 

鶴松の容体が悪いので一門衆が呼びだされた

 宇喜多秀家が初登場、他の俳優陣も初登場

 

必死に看病する秀吉と淀殿

 

家康はほくそ笑む

昌幸も鶴松の亡くなった後のことを考える(このシーン同時進行だったわ)

 

(昌幸)秀吉は今年でいくつじゃ?

 

(信繁)確か55になられたかと

 

(昌)もう子はできまいなあ

 

(家康)鶴松の死はどれだけの意味を持つか、分かるか?

跡継ぎがいることで豊臣の世がこれからも続くと誰もが思っておった

 

(昌)ところが鶴松が死ぬことで分からなくなった

 

(出浦氏)ひょっとしたら豊臣は秀吉一代で終わるのではないか?

人はそう思い始める

 

(家)見方によっては鶴松が生まれる前に戻っただけとも言えるが

 しかし、本当にそうか?秀吉は年々老いている

 

(昌)今のところ後を継ぐのは近江中納言秀次

決して愚鈍な男では無さそうだが

 

(家)(秀次は)秀吉に比べればひ弱にすぎぬ

さぞ荷が重いことであろう

 

(昌)わしの読み通りになりそうじゃ

豊臣の世は

 

(家)そう長くは続かぬぞ

もう間もなくじゃ

 

信繁は現実を思い知らされる

 

 秀次はきりにプロポーズ

この先ずっとわたしのそばにいてくれないか?

 

えっ?

 

お気持ち嬉しゅうございました

断るかなw

 

薬草ネタ好きだな三谷w

わしが元気になってどうするんじゃ!とかw

これでオチか~まあ、毎週こんな感じだしな

 

昌幸は帰ろうとしていた家康と廊下で会った

 なんとか持ちこたえてくれるといいのだが

 

必ずご全快されると信じております

 

わしらには祈ることしかできんのでのう

 

左様ですなあ

腹の中では鶴松が死ぬことを祈っている2人だが

 

 信繁は落ち込んでいる秀吉を慰めるのだが....

教えてくれ

鶴松は何のために生を受け、何のため死んでいくのじゃ?

 

ゆくゆくは鶴松は関白となり、そしてこの国を治める

 

殿下はどうされるのです?

 

海を渡って明でも攻めくだすか

 

殿下、すぐにお戻りください!

 

 

 鶴松は容体が急変して死亡

 天正19年8月5日 2歳2ヶ月で短い一生を終えた

 

でんでん太鼓の音が響く

秀吉が鶴松の亡骸をあやしていたのだった

 

茶々は精神崩壊っぽいな

皆死んでしまう、わたくしの大切な人達

 

北政所に抱きしめられ現実に引き戻される茶々

号泣

 

鶴松の死は豊臣家のさらなる悲劇の序章にすぎない

 

今週はこの辺でさようなら

 

 

まとめ

  うーん、今週はどうなんだろう?まとまらないなw

豊臣家の衰退は、秀吉に切腹させられた利休の祟りから(呪い)始まったという(日本一のサゲマン淀殿と)シナリオは斬新というか出来が悪いというか新説?盛り沢山で分かりづらいかなあ....。

利休切腹までの流れの回想シーンが多かったので(物語が始まった時点で利休はすでに死んでいるので)複雑な気もするけど、物語的にはこれまで秀吉を支えてきた豊臣家の大黒柱だった弟の秀長が死に、待望の子供(世継ぎ)だった鶴松が死んだというだけだった。

大事件ではあるけどね。(真田家は息災なので好対照ではある)

豊臣家にとっては大事だが、(世継ぎがいなくなった秀吉の今後を思う)家康と昌幸の思惑は一致してるところが、やっぱり2人とも狸だなとは思ったね。

鶴松が亡くなるという悲劇的な回で、 あえて笑うようなネタを入れなくともいいのではないかなと感じたけど、これまでどおりの展開だったかな。

3回見たらやっと分かったような気もしましたけど、因果応報で済ますのもなあという感じです。

 

いつもそうですけど特に今回の放送に限っては製作者の意図が、イマイチ分かりません。

 まあ、今回もゆっくり録画を見て後日記事を書きなおすと思います。

 

 

第26回「瓜売(うりうり)」に続く

 

 

 

参考記事

www.excite.co.jp

www.oricon.co.jp

news.mynavi.jp

 

 それでは、また来週。

 

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