東日本大震災から5年を過ぎて感じたこと
もう5年も経つのか。
あの日のことは今でもはっきり覚えている。
わたしは当時小諸市のある会社で働いていた。
当時は休憩時間というと缶コーヒーを買って、喫煙所というかタバコ部屋に行って、同僚と雑談するような毎日だった。
タバコ部屋は狭く煙がいつも渦巻いていた。
ある日やっぱり休憩中に宮城県出身(仙台市だったと思う)の技術職の若い男が、「仙台は今地震が起きたらヤバいことになる」と営業の人と話しているのを耳にした。
彼とはそんなに話をする機会が無かったので、わたしはその話に加わっていたわけじゃなかった。ただ、真剣に喋っていたのを覚えている。
その2日後だったと思う。
その日、わたしは、いつものようにパソコンで出荷の確認作業をしていた。
わたしの部署は課長とわたしの2人だけで、製品の出荷と倉庫の在庫管理、発送の準備と作業、荷物の受け入れなどが主な業務だった。
営業アシスタントから出荷日時を確認し、2日前にピッキング、梱包、伝票の用意をしてという普段の仕事をこなしていた。
もうすぐ休憩だなと思っていた時、異常な揺れを感じた。
あっ地震と思った。椅子に座っていたが一瞬コケるんじゃないかと思った。
揺れはゆっくりだったが、今まで体験したことのないくらいの大きな揺れ方だった。
どのくらい揺れていたのかは分からないが、ひどく長く感じた。
わたしの部署は、製品(完成品)が山積みだったので、崩れたら危ないと思ったが、揺れはいったんは収まった。
課長と凄かったねえとか言っていたら、また揺れた。
わたしは、「これ避難しないと危ないんじゃないとか」課長に言ったような気がする。
というのも建屋は古かったし、2階も在庫の山があったから、天井が抜けたら死ぬと思ったのだ。(私たちの部署は1階だったので)
それで余震が続いていたので、仕事どころじゃないなと思っていたら、社内放送で「地震で危ないから屋外に避難しろ」との指示があった。
みんな大慌てで外の駐車場に避難し始めたが混乱はなかった。
人員の点呼で全員の安全を確認して、しばらくは外にいたが風が冷たかったのを覚えている。
30分近く外にいただろうか?あんまりその辺は覚えていない。
そのうちに完全に揺れが収まったので、皆警戒しつつ中に戻った。
わたしはやりっぱなしの仕事をしようと思っていたが、何かの用事があって営業アシスタントの女性のところに行った。
その子は携帯でテレビを見ていた。
えっ、なんで?と思ったのだが、見せられたテレビの画面には街が水に飲み込まれるという地獄絵図が繰り広げられていた。
そう、大津波である。
わたしは震源地がどこかも知らなかったのだが、どこかの都市が津波に襲われているということは、すぐに理解した。
家や自動車がおもちゃみたいに飲み込まれていくのをただ呆然として見ていた。
その日は5時になると定時で退社した。
帰り道は普段と変わらずこの辺では被害が少なかったのだと思った。
家に戻ると慌てて中の様子を確認しつつ、実家の母に、大丈夫だったかと確認の電話をした。
NHKのニュースを見ながら話をしていたが、ここでやっと東北沿岸が広い範囲でとんでもないことになっているのに気がついた。(会社でも分かってはいたが)
上田は震度3~4だったらしい。
でも、70歳近い母でさえ、こんなに揺れたのは初めてじゃないかと言っていた。
異常な揺れ方は、地震の大きさがとてつもないものだったことを分からせた。
阪神大震災のときは揺れはなかったのだ。
その日はずっとテレビを見ていたが、被害状況が分かるにつれて1000年に1度あるかないかの地震だったのだなと思った。
わたしはとりあえず一安心だったけど、また揺れるかもしれないという不安感は、寝るまでずっとあった気がする。
翌日、いつものように出社すると義援金の箱が用意されていた。
さらに各家庭でいらない毛布や衣服、救援物資があったら会社に持ってきてくださいとのお達しもあった。
実はこの時、社員の何人かは東北に出張で行っていたので安否の確認をしたらしい。
被災したが、すぐに無事だったという確認はできたみたいで、彼らは一晩中車を走らせ日本海側を通って、戻ってきたそうだ。
でも、深夜に信号は点いていなかったとか言っていたかな。
会社側の対応が速かったのには訳があって、工場が相馬市にあったのだ。
東京の本社もかなりの揺れだったみたいだが怪我人もなく無事だったらしい。
ただ、発送の予定は大幅に狂ってしまった。
非常事態だから仕方ないよなと思って、営業アシスタントに納期の再調整してもらったのを覚えている。
休憩時間にタバコ部屋に行くと被災した人たちから話を聞いた。
生々しかったが内容は忘れてしまった。
彼らは昼前に用事が終わったので、直接被害には合わなかったが、東北道が不通になったので山形県を抜けて新潟から長野に戻ったそうだ。
たまたま宮城の子もいて、親族の無事は確認したらしいが、現地がひどいことになっているという話を聞いたので、ひどく沈んでいた。
その後2~3日で、救援物資とか義援金も集まって被災地に送ることになった。
毎日休憩時間にタバコ部屋に行くたびに、宮城の子からテレビでは言わない現地の状況とかを聞くと気の毒だったけど、自分には何もできないのが歯がゆかった。
話の内容は書かないけど、悲惨そのものだった。
震災後しばらくは緊急事態だったので、地元のホームセンターでも一時的にモノ不足になったのを覚えている。
ガスボンベとかミネラルウォーター、トイレットペーパーとか保存のきくインスタント食品や懐中電灯やラジオなどが一斉に店頭から消えたのだ。
商品が入荷したとしても、全部買い占めちゃう人が後をたたなくて、被災地にモノを送るというのは事実上不可能だった。
仕事がら東北と関東方面は運送屋が往生しているという情報は掴んでいたので、分かってたことだったけどね。
そんなわけで長野から現地に行く人も少なからずいたが、本格的な救援という感じではなかったと思う。
実は県内では新潟県と接する北部の栄村でも地震があって、村は一時壊滅状態だったらしい。
この地域は前から地震が多いのだが、大地震と連動したのかは分からないそうだ。
自分も程度は軽かったけど、被災したわけでこの体験は一生忘れないと思う。
直接的な被害はなかったけど、地震で避難したことはそれまで一度もなかったし、今でも津波の映像を見ると血の気が引く。
だから、ちょっと前の大洪水も怖かった。
ちょっとしたトラウマになっているのかもしれない。
これだけ離れている場所でもかなりの影響があったのだから、実際に津波の被害にあって今を生きている人たちは、もっと大変だったのは間違いない。
実際、宮城に住んでいる友達に当時の話を聞いたら、津波が襲ってきて友達や同僚、家族を何人も亡くしたと言っていた。
時間は過ぎていっただろうけど、つらかっただろうと思う。
そう、わたしたちは、たまたま内陸だったので運が良かっただけなのだ。
どこに住んでいようと安全ということはないし、いったん超自然的な災害が起きれば、人間なんてなす術もない。
実際、その後長野県では御嶽山が噴火したし、浅間山も活動は活発だ。
それに断層というかプレートの上に住んでいるから地震がいつ起こっても不思議ではない。
八方尾根も地震でえらいことになった。
だから防災意識は高いとは思うが、実際に起きたらどうなるのか想像もつかない。
被災地の復興がこれほど遅れているのは、地震と津波の規模が空前絶後だったこともあるとは思うが、政府の対応がマズいのが一番だろうね。
だから東京オリンピックより東北地方の復興のほうが、よっぽど大事だと個人的には思っている。
決まってしまったことは仕方ないけど。
未だに福島の放射能の問題も片付いていないのに、他の地域の原発の再稼働を強引に進めたりとか意味が分からん。
長野県も福島の放射能の汚染地域だということは、分かって書いている。
被災地にお金は集まっていると思うけど、使い方は間違っていると思わざるを得ない。
再建不可能なまでに津波で破壊されてしまった地域があるのは悲しいことだけど、仕方がない。自然にはどうやっても勝てないからだ。
過去に大きな災害があった場所でも、長い年月が過ぎると忘れ去られてしまうから、難しいとは思う。
わたしは元建築屋だったから、あんな災害がきたらどんな堅固な構造の建物でも絶対に耐えられないのは分かるんだわ。
それでも育った地元から離れて暮らすのは、耐えられないだろう。
逆に戻らずに避難先で新しい生活を選んだ人たちがいるというのも分かる気がする。
経済が不況だったから年金を運用するというのなら、先に被災者の生活を支援するために使ったほうがいいんじゃないかな。回収できなくてもだ。
自民党は、竹下内閣時代ふるさと創生とかいって1億バラまいたことがあるし、今も年金受給者に3万円バラまくくらいだったら、ぜんぜん足りないだろうけど東北の復興でバラまいたほうがいいと思う。
阪神淡路大震災の神戸(関西圏)というモデルケースがあるのに、この遅れようは何なんだろう?
確かに被災した地域の広さを考えたら、比較にはならないと言われそうだが、田舎はほっとけばいいのかな。票田にならない場所はスルーですかね。
政府がアベノミクスは成功だと言ったとしても、震災後5年経った今も苦しんでいる人たちがいるってことは、現実は被災者は切り捨ててきたというのと同じではないのかな。
復興には、お金がいくらあっても足りないというのは分からないではないけど、被災した人たちが気の毒すぎるわ。
こころからお亡くりになった方の御冥福をお祈り申し上げます。
それでは、また。