@なかさだの「終わり良ければすべて良し」 All's Well That Ends Well by @nakasada

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初めて天理教の葬儀に出てみて

 

 

 

 

どうも、なかさだです。

 

 今日のエントリーはお葬式についてです。

実は18日の午後に伯母が亡くなりました。79歳でした。

ここ数年は実家の母しか連絡を取っていない状態だったので、突然の訃報にショックを受けています。

伯母は父の姉だったのですが、諸事情があり距離的にも精神的にも離れて暮らしていました。

今年は調子が悪いという話は聞いてはいたのですが、あまりに急だったので本当に驚きました。

伯母は子供が無かったせいか姉を溺愛していて、わたしも世話になりましたが明らかに差がありました。

それでも、わたしも子供のころは、よくいろいろおもちゃを買ってもらったり、小遣いをもらったりしたので、今となってはいい思い出のほうが大きいですね。

伯母は肩こりがひどくて、よく揉んでくれとか踏んでくれとか頼まれたのですが、お前は力が強すぎて揉み返しでさらに調子が悪くなるとか、よく言われました。

伯母が亡くなったという連絡は、同居していた伯父から姉の家に直接電話があったらしいのですが、詳しい説明はなかったらしい。

姉も嫁いでからは、疎遠だったので驚いていました。

わたしも連絡を受けて、お別れの会が土曜日に行われるということだったので、最後のお別れということで、みんなで集まっていくことにしました。

ただ、伯母は熱心な法華経の信者だったのですが、天理教に30年くらい前に改宗していたので、すべて?でした。

実家に来るとよく天理教の教会の話はしていたのですが、あとのことは全然分かりませんでした。

伯母は信心深いのですが、思い込みが激しくて、騙されてヘンなツボを買ったりとかお数珠を買ったりとかしていた記憶もあったので、ちょっと不安でした。

さすがに私たちの年代だと、あらゆる葬儀に行った経験はありますが、天理教だけは分かりませんでした。

今年75歳になる母ですら、天理教なんて行ったことが無いといっていました。

 

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最近は、葬儀というと葬儀の会社が取り仕切って行われることが多くて、親族の意向は 反映されるものの非常に似通った葬儀の形式で行われています。

地方によってかなり違うとは思いますが、お寺さんではなく、葬儀会社の斎場で行う場合は似通ったパターンが多いので、自分が喪主とともに最後のお別れに来る方たちに挨拶をするとき以外は、非常にシンプルですねえ。

それがいいか悪いかは分かりませんが。

イメージ的には、自宅で亡くなった場合、お通夜は近所の人とか近しい人が家に来ることが多く、葬式自体は斎場で友引以外の日に行われる感じです。

香典などは受付で渡し、記名。生活改善ということになると額は1000円で統一されたりします。

それで焼香してから、引換券をもらって「お返し」をいただいて帰るパターンが多いです。塩とハンカチとかが多いですかね。

なぜ呼ばれたのか分からない葬儀とかもありますし、会社の関係とかたまたま近所なので呼ばれて告別式に出ることもあります。

知人や友人、その親族の場合は、失礼なので必ず行くことにしています。

あとは係員の指示に従って焼香。そのまま遺族の方に挨拶して帰ることもあれば、近親者の場合は、葬儀自体に参加することもあります。

わたしとしては、葬式は亡くなったのでお坊さんの読経で成仏してもらうイメージです。しかし、アバウトだなあ。

告別式に呼ばれた場合は、お坊さんの説法というか読経や故人の話などを聞いたり、お斎で遺族と故人を偲んで会食するような感じです。

父と叔父の葬儀の時は出棺して遺体を焼くところまで立ち合いました。

もちろん最終的には納骨までです。

初七日、四十九日、一年忌、三年忌、七年忌、十三回忌などもありましたね。

まあ、仏教というか法華経曹洞宗くらいしか、わたしは知らないし地元のお寺の檀家になったのもここ20年くらいなので、正直に言いますとかなり疎いんですよね.....

実は、わたしが生まれた時点で両親の両親が(私からすれば祖父と祖母)すでに亡くなっていたので、お彼岸とかも父はやらなかったというか、仏壇に線香をあげて終わりだったんですよ。

だから宗教的な儀式には、ほとんど触れずに育ちましたね。

父が亡くなった時も地元にお墓が無くて(父の実家にはあったが)どうするか困ったくらいです。

実家が遠かったのでお墓を守れないということを母が言い出して、急きょ去年亡くなった叔父に頼んでお寺さんに紹介してもらって檀家にしてもらったくらいです。

まあ、早い話が若いころは無神論者だったんですが、急にそういった儀式を行わねばならなくなって、都合上、仏教徒にさせていただいた感じです。

普通の家庭だと、昔からすでに檀家で、お坊さんとも日常付き合うことがあると思いますが、わたしの父は県外から流れてきたうえに、遺書などもなかったので、どういうふうに葬式をやるかとか戒名をどうするかとか二転三転して疲れたことを覚えています。

父は般若心経が好きでよく唱えてましたけど、わたしはぜんぜん信心深いタイプではないんでね。

まあ、先祖崇拝くらいの気持ちですね。

そういう経験もあったので、去年叔父が亡くなったときは、子供がいなかったので、急きょ親族側でとお願いされましたが、まだ余裕がありました。

 

余談ですが去年、お盆に何年かぶりに弟と父の実家の墓を訪ねていくとなんと先祖伝来の墓が無縁仏扱いされたらしくて撤去されていて完全に無くなっていたので、大きなショックを受けました。

現在管理している、お坊さん曰く「もう何年も前に撤去したから知らん」「そんなお墓あったっけ?」「ここはお武家様のお墓が多いから平民がいるはずない」とか言われたのです。

そんなのあり?と思いましたが無いもんはないし諦めざるを得なかった。

子供のころ、お盆に毎年行ったお墓の場所は、何も無くなって更地になっていました。

わたしたちも何年も行っていなかったのは、まずかったなと思ったのですが、面倒を見ていたお寺さんが「寺カフェ」になっていて、さらにショックを受けました。

寺カフェですよ。信じられますか?

仕方なくわたしたちは泣く泣く、寺カフェでお茶して長野に帰りました。

でも、地元にお墓ができたので、気軽に父に線香あげてやろうかとか思うようにはなりましたが、ご先祖様には申し訳ない気持ちでいっぱいではあります。

 

脱線しましたが、そんなわけで、今回の天理教形式の葬儀というのは、誰も分からなかったです。

わたしは調べても仕方ないと思ったので、特にネットでは調べませんでした。

場所が分からなかったので、地図を見ただけでね。

弟と姉は失礼があってはならぬということでネットで検索しまくっていたみたいですが、わたしは故人を慕う気持ちがあれば、現地で直接作法を教わったほうがいいと思ったのです。

 

結局、母、姉、弟、わたしの4人で天理教のお別れの会に、今日行ってきたのですが、さすがにちょっと違和感はありましたね。

 

伯父から事情を聞くと、伯母はちかごろ心臓が悪かったらしくて心不全だったそうです。伯父の留守中に亡くなったので、警察が確認してからすぐ火葬されたそうで、写真でしか会えなかったのが残念です。すでにお骨でした。

天理教の本部に行ったときの笑った写真は幸せそうでしたけど。

 

香典は、父が亡くなったときに頂いた額をそのままお返ししたのですが、水引は天理教の場合、白と黄色だというので、今朝慌てて取り換えました。

でも、伯母の古くからの友人の方たちも天理教ってナニ?状態だったようで、普通の香典袋もありましたね。

 

そもそも天理教とは?なんですよ。

www.tenrikyo.or.jp

まあ、事前に調べとけって感じですよね。

カルチャーショックというか神式の葬儀って出たことないことに今日気がつきました。

www.osohshiki.jp

 

天理教とは、奈良県天理市に本部神殿を置いている新宗教のひとつで、全人類を兄弟姉妹とし、悩みや苦しみのない世界を実現するという思想が根本にあります。
創始は1838年で、天理王命という親神様からの教えを教祖の中山みきが説いたことが始まりとされています。

その天理教教派神道の一種であるため、葬儀全体の内容は神式に近いものになります。
天理教における葬儀の考え方は、神から借りていた古い身体を返し、新しい身体が見つかるまで魂を神に預かってもらうための儀式だとされています。
天理教での通夜は「みたまうつし」と呼ばれ、これは「古い身体から魂(みたま)を移す」ことからつけられた名前です。天理教徒にとっては、告別式よりもみたまうつしのほうが優先されることもあります。

 

ほほう、今知りました。神から借りていた古い身体を返し、新しい身体が見つかるまで魂を神に預かってもらうというのは直接説明されたので、よく分かりました。

しかし、けっこう歴史があるんですね。

■注意すべき作法
通夜で注意すべき作法は、玉串奉献と参拝(列拝)の2点です。

・玉櫛奉献
玉串とは榊のことで、これを祭壇に捧げます。斎員から玉串を受け取り、左手に葉側がくるように両手で持って祭壇の前に行きます。
次に葉側を祭壇に、枝側を自分に向けて一礼します。最後に左手を枝側、右手を葉側に移し、時計回りに玉串を回して枝側を祭壇に向け、玉串台に献じます。

・参拝(列拝)
玉串を献じたあとは、参拝をします。天理教では、二礼四拍手一拝四拍手一礼です。一般的な神道では「しのび手」といって音を立てないようにしますが、天理教では音を立ててもよいとされています。礼と拝の違いですが、礼は軽いお辞儀であるため30度程度の角度、拝は最敬礼であるため90度腰を折ります。

まず、お坊さんじゃないや、教会の人が(斎主というらしい、黒い服を着ていたが神主ぽかった)神事の最初に唱えられるお祓いの言葉をやって、みたまうつしの儀、(故人の身体から魂を移すための儀式のこと)うつしの詞はその儀式の最初に捧げる言葉をやってました。

祭壇には様々な野菜が、これでもかというくらいそえられましたね。

斎員の助手の方の拝礼がありました。

このね、玉櫛を祭壇にお供えして、2回お辞儀して4回拍手してお祈りして4回拍手してお辞儀というのが、初めてだったので印象的でした。

これを出席者全員が行って、他にあった祭壇にも同じように参拝して終了でした。

 

仏教では初七日なのですが天理教では十日祭というらしくて、お通夜と同様のことを繰り返して終了でした。

頭を下げてくださいと言うので、何をされるのかと思ったら、神主が持っている白い紙が付いた棒みたいのが頭上を旋回してましたけど、どういう意味なのかは分からなかったです。

喪主のあいさつとかもあったんですけど、わたし伯父とは折り合いが悪かったので、よく覚えていません。

こうして儀式を終えると、お食事が別室に用意してありますので、というので御馳走になり帰ってきました。

 簡素なお式でしたけど、最後にちゃんとお別れできてよかったなと思いました。

 

まとめ

まあ、多分、今後もキリスト教とか他の宗教の葬儀とかに出ることはないと無いとは思いますけど、故人を偲ぶ気持ちがあれば、特に作法は知らなくとも問題ないかと思います。

行くことで必ず気持ちは伝わると思うんですよ。

故人とはお墓で会ってもいいですけどね。

 

教会の人たちのお話を伺ったのですが、伯母は天理教には、(教会の人たちには)ずいぶん救われたんじゃないかなと思うので、ありがたかったです。

充分、救済されたんじゃないですかね。

この場を借りてお礼を言います。ほんとうにありがとうございました。

 

今でも、新興宗教の勧誘は正直迷惑だなと思ってますが、信ずることでその人が救われるのならいいものだなとは思います。

わたしは本当にピンチとかどん底で困ったときは、神様や仏様に絶対に頼ってはならないというか願ってはならないとは思ってますけどね。

自分が招いた危機なんて絶対に助けてくれませんから。

 

でも、人間そんなに強くないですからねえ。

心のどこかに頼るものがあったほうがいいのかもしれませんね。

少なくとも今よりも気持ちが楽になるかもしれません。

自分も大病をしたりしたので、いつ死んでも不思議はないと昔から思っていますしね。

みんな生かされているんだと思いますよ。

 

若いうちはそんなこと全く思いませんでしたが、身内や友人が亡くなったりとかありますと考え方も変わるようです。

みんな亡くなったとしても心の中では生きているんですけどね。

 

ちょっと湿っぽい話ですいません。参考になりましたら何よりです。

 

それでは、また。

 

 

 

 

 

 

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